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新庄藩谷地郷14ケ村総鎮守

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社務所〒995-0112 山形県村山市大字湯野沢2884番地

熊野神社の歴史concept

建築年代について

 大正6年編纂の富本村史には
 「紀伊の人三郎なるもの(建久年中)本村に移住し人民を懐けて終に酋長となり地を擇んで自ら信する所の大神を勧誘し奉り後仝く字楯に城郭を構え其の四面に部落の人民を移住せしめて之を統撫す且つ院内山を以て要害の地と定むと 寳殿の棟札に承元元戊辰六月建立平朝臣友康明徳二癸申六月再建平長盛とあり
 旧領主戸澤候の祈願所にして天和二年四月御宮御再建其の他營繕費及戸帳等の寄進等あり左に慶安五年壬辰九月新庄城主戸澤氏より帳幕白地一張寄附寛文五乙巳歳二月新庄城主戸澤氏北方より帳幕白地一張寄附香雲寺様(新庄城主二代目)御家督の砌御立願にて御入部の節御途中より直に御代拝被仰付戸帳を奉納せり
 享保十九年四月十日神祇伯より御宣旨及び祝辞幣白御贈與安政元年新庄城主戸澤氏御参拝
 明治六年十二月郷社に列せらる
 本殿は明治十四年十月の建築にして其の経費二千円なり(一部略)本社の壮麗にして又境内の幽遂なること近郷に稀に見る所なり(原文はカタカナ標記)」
とあります。
 大正11年編纂の北村山郡史には承元元(1207)年6月平友康建立、元中8(1391)年平長盛再建という記事があります。
 大正七年発行の新庄古老覚書には
 「天慶院殿と云は御家中門屋氏の娘也、源勝院様の御意に入候女にて越中様の御前様と加藤出羽守殿へ御嫁被成候御娘の御實母也、香雲寺様御継母の様なる事にて威勢有て(中略)今の英照院是也其外鳥越八幡の御社内の彌陀堂金澤町の十王堂建立谷地湯野澤村の熊野堂造営也、紀州高野山熊野山等迄参詣ありし也、(以下略)」
という記事があります。
 先代宮司によれば戦争前まで承元元年の棟札が残っていましたが残念ながら戦後亡失してしまったとのことです。慶安五年の帳幕の存在は確認されており、現時点では熊野神社は少なくとも慶安5年(1652年)には存在していた、ということができます。建築物としては新庄古老覚書の説をとるか富本村史の説をとるかですが、登録文化財調査結果のとおり17世紀後半と少し幅をもたせる他ないようです。


創建者と庇護者について

 大正6年編纂の富本村史には
 「三郎は平氏、友重と称し紀伊の人なりしが昔建久年中紀伊より来り襲ひて此の部落(今の大字湯野澤)を押領して尋で今の字楯に城郭を構へ其の四圍に部落の人民を移住せしめてこれを統撫す且つ院内山(大字を距る西約十八町)を以て要害の地と定め承平(ママ)年中此の所に己が尊信する熊野大神を紀州より遷座し人民をしてこれを崇敬せしむ三郎はかく熊野大神を尊崇すること極めて厚きが故に人呼んで熊野三郎といふ、後これを氏となすと何時の頃よりか(其の子孫ならん)白鳥十郎に服従して股肱の臣なりしが天正六年(ママ)谷地押領使白鳥十郎長久山形城主最上義光のために殺害せらるるや三郎は山形勢と憤戦して竟に討死せり、さて三郎の尊崇する熊野大神は今現に郷社に鎮まりませるを始め城郭の構へたる字楯の城跡並に矢木沢的場(中略)等の有在せるを見れば疑ふべくもあらず全くの事実なるべく先以て地方の人傑といはざるを得ず此れこの傳を著せる所以なり
 因みに記す天正最上軍記に熊野三郎大将として山形討手引受て合戦す、また熊野三郎は五尺八寸の太刀を切りちらし又熊野三郎友重は白鳥十郎長久の臣にして館持家老職の記事あり」
とあります。
 熊野三郎の生出については不明ですが村の言い伝えには平知盛の末子平友康であるという話と平家物語の中に出てくる鼓判官平知康であるという話があります。先代宮司は鎌倉御家人で湯野沢に派遣されてきた地頭なのではないかと言っておりました。神社背後の山には山城跡が残っております。
 いずれにしても鎌倉時代から安土桃山時代まで約400年にわたり湯野沢地区を支配していた領主で、神社裏にある山城を築けるほどの勢力を持っていた領主であったことは確かだと思います。熊野神社は創建以来この熊野氏の厚い庇護を受けておりましたが天正年間白鳥氏とともに熊野氏も滅び、数十年間の空白を経て戸沢氏の庇護を受け新庄藩上谷地郷内の御祈願所として機能していたようです。
 その後明治維新からは郷社として国の管理下となりましたが、先の大戦の敗北により国の管理下を離れ現在は宗教法人として現在にいたっております。