この点を考えるにあたっては神社を宗教面からも考える必要があると思いますので、少し回りくどいのですが、そこから考えてみたいと思います。
神道には経典がありませんし、教祖もいません。また天国と地獄もありません。崇拝の対象も自然から実在した人物までいろいろなものがあります。そして普段朝夕神前で祈るのは国の平安と国民の安泰で、仏教やキリスト教、イスラム教のように個人の救済を主な目的とするものではありません。自然そのものが教えであり、宗教なのだと思います。
もちろん古代から神道とその宗教施設は存在しました。それは最初自然の岩や山といったものだったのが、時代が下るにつれて現在のような本殿・拝殿などといった宗教施設が作られるようになっていきます。そして古代の日本政府においてはそういった神々をお祀りすることが政治の一部でした。「式内社」という言葉を聞いたことがある方もいらっしゃると思いますが、これは平安時代に国が定期的に幣帛を奉り、国の平安と国民の安泰を祈願していた神社です。また延喜式をはじめ令義解、宣命といった公式な書物の中にも様々な神事に関する規定が定められていました。古代においては神事は国が神社を通して行う様々な祈願でした。
飛鳥時代に仏教が入り、奈良時代から盛んになると、神仏習合という考え方が生まれました。上記のとおり神道は国の祭祀で、個人に対する布教活動は行われていなかったので、仏教のように熱心に布教活動を行って様々な宗派に分かれて個人に浸透していくことがなかったために、仏教の広まりとともに、神道における日本の神々は仏教の六道の中の天道にあるもので、仏の教えによって六道から解脱できる存在、とされていきました。こういった経過から江戸時代までの神社は寺院のスタイルをとる(いわゆる権現様)か、神社の形態をしていても宗教組織としては管理者として僧侶がおり、その下に神職がいる状態でした。なお江戸時代においては主に京都の吉田家が神職免許状発行等全国神社の神事面を司っていました。また江戸時代の寺院は幕府行政の末端機関として現在の市町村市民課・税務課のような役割を果たしていたため、強力な権限を持っていました。
江戸時代後期、諸外国の圧力が高まり幕府がそれに対抗できないことが明らかになってくる頃、国学者といわれる、日本の古代の姿を取り戻そうと説く人たちが現れました。同時に、諸外国に対抗するためには西洋風の新しい政治システムを導入するしかないと考える人たちが現れました。そして両社の力により明治政府が誕生しました。
明治政府のスローガンとしては王政復古でしたが、この復古とはいつ頃の時代を指すものだったでしょうか。それは神武天皇の御代を指していたといわれています。これは幕府打倒の一翼を担った国学者たちの思想ですが、その思想は具体性に欠けていました。神話の時代にどのような政治が行われていたのかわかる人はいません。ただわかっていたのは祭政一致、という点だけでした。これを受けて天皇陛下が自ら神事を行い、国と国民がそれを見習って古来の朝廷祭祀を復活する、ということが実行されました。実行するにあたって全国の神社仏閣が調査され台帳が作成されました。これが神社寺院明細帳です。同時に神祇官以下の国の機関が神社で行う祭祀の詳細を規定し、全国の神社に通達を出して国(最終的には内務省)の指示により神社祭祀が行われました。
これとは別に明治初期、社寺上知令という政令が発出されました。これにより神社仏閣は従来から自己所有のものであったことを証明できない限り、境内地以外の所有地は国有化されました。加えて江戸時代の支配に対する反発などから檀家が減少するなど、寺院は大打撃を受けました。しかしながら数百年にも及ぶ強力な教団組織をもつ仏教教団は海外への布教活動やいわゆる葬式仏教といった新たな道を自ら求めて寺院の立て直しを図っていきます。
同時期には神仏判然令が発出され、境内地に寺院が存在する神社に対して、境内の寺院を除くか別な場所に移転させるように指示がだされました。また当時寺院であっても神仏判然令に伴って神社になることも認められました。ですから当時の神職は還俗したお坊さんもあり、もともとの神職もあり、京都吉田家で資格を取って神職となった国学者、山伏あり、と多種多様な人と人から成り立っていました。
当時明治政府は主にキリスト教に対抗するため神道の国教化(大教宣布)を図り神職・僧侶等から宣教師を育成して国民教化をしようとしましたが、先述のとおり神道は明確な教義も教祖も経典もないため、結果的に道徳教育となってしまい、学制発布とともに道徳教育は学校教育の科目とされ、失敗します。同時に内務省の指示により神職は宣教師になることを禁じられ、神社祭祀う行う以外の活動を禁止されました。この状態を指して言われる表現が「国の祭祀を行う機関とされた」という表現です。
一方、寺院ほかの宗教団体を取り締まる法律の制定が何度か議案化されましたが、社寺上知令や神仏判然令、それに伴う諸情勢を受けた、主に寺院側から激しい反発があり、昭和14年まで制定できなかったといわれています。昭和14年はヨーロッパで第二次世界大戦がはじまった年であり、日本においても戦時体制強化のためある程度強制的に制定された法律だったのではないかと思います。
第二次大戦終結後、政教分離の観点から、国の機関が神社で行う祭祀の詳細を規定し、全国の神社に通達を出して神社祭祀が行うことは不適当とされ、神社は宗教法人化されることになりました。宗教法人となった神社はそれぞれが教団組織を持たない個々の宗教団体となり、仏教の檀家にあたるものもなく、明治時代の寺院と同様自活の道を探らざるを得ない状況となりました。このため神社によっては正月、茅の輪くぐり、七五三、結婚式といった様々な神事・行事に活路を求めたり、文化財としての価値に存在意義を求めたりするなど様々な方法で生き残りを図り現在に至っていますが、神事や文化財等に活路を見いだせなかった神社は街角や田舎の片隅に普段はひっそりとたたずむ神社となりました。
以上主に明治期からの神道・神社の成立過程を長々と簡単に?述べてきましたが、上記の歴史からすると、宗教法人になる以前の神社の不動産登記は、所有者が法人なのではなく、国=内務省という意味で登記されていたのだと思います。これは現在でも不動産登記情報の所有者欄に国土交通省、法務省と記載されているのと同じです。ただ、当時十数万社あったといわれる神社についてそのすべての所有不動産について内務省と登記するよりは、神社明細帳に基づいて各神社名を登記したほうが管理しやすいという判断から、神社名での登記がなされたのではないかと思っています。その傍証となるかわかりませんが、私は戦前の神社の不動産登記には甲区の所有権登記、神社財産登記しか見たことがありません。また表題部所有者欄に神社名のみ記されたものも多くあります。これは法人として積極的に所有権を主張したり、資金融資を受けることを前提としない組織であったことを示しているのではないでしょうか。
最後は少々強引な論理展開となってしまいましたが、神社は神社明細帳に登載されることにより宗教法人とみなされたという表現の中で、宗教法人という用語は的確ではなく、現在でいう独立行政法人のほうが近いのではないかと考えています。また、不動産登記についていえば、登記情報に記載された所有者は法人としての神社ではなく、政府機関(神社)という意味合いで登記されていたのではないかと考えております。
以上司法書士と神職の両方の経験から私見を紹介させていただきました。何かのご参考になれば幸いです。
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