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熊野神社にまつわる話concept

熊野神社の禁忌

 地元湯野沢では最近まで「菅蓑を着ること」「修験草履をはくこと」「土蔵を建てること」「馬を飼うこと」は熊野神の祟りがあると信じられてきました。またみだりに境内地山中の杉の葉や樹木を切ったりしても祟りがあるといわれています。
 その理由は何時・何代目なのかはわかりませんが、湯野沢領主熊野三郎が管笠、管蓑を着せられ修験草履をはかせられて、殺害された上、土中に逆さまにして埋められたからだといわれています。このために熊野神社で寝ると起きた時は必ず逆枕・北枕・逆さまになっているといわれています。


新庄藩主と熊野神社

 湯野沢に伝わる話では、初代新庄戸沢藩主戸沢上総介政盛公は初め酒田に移封される予定でしたが、その辞令を渡される日を忘れて箱根の塔の沢温泉に無断で湯治に行っていたため徳川家康の怒りにふれ、加増が半分に減らされて新庄の藩主となったのだそうです。移封当初政盛公は真室川の鮭延城に入りましたが、鮭延城に入ったその夜、寝ている政盛公の枕元に白装東の神が立ち「我は熊野大神である。聞け、最上家の残党どもがお前を殺そうとして小国の殿と相談し明朝鮭延城を攻めようと準備している。今すぐお前の方から先手を打って小国城を攻め滅ぼすがよい。」と告げて消えました。そこで政盛公はお告げのとおりその夜のうちに小国城を攻めて小国の残党たちを滅ぼし、小国8干石を戸沢藩の領地に加えました。政盛公は熊野神のおかげで命拾いをした上に領地も増えたので、熊野神社を戸沢藩の祈願神社として朱印状を与え、米5石を奉納したといわれています。
 その後、政盛公は領内の検地を行うため家来をつれて湯野沢に向かいました。道中、大久保の大原橋まで来た時、橋の上で馬が突然転倒し政盛公は落馬しました。あまりに突然の出来事だったので政盛公は不思議に思い、起きあがって西のほうを見ると、そこには熊野神社がしんかんと祀られていました。政盛公は「鮭延城に入った時、身の危険を枕神に立って守ってくれた神様だ。霊験あらたかな神様だ。戸沢家の守り神だ。」と言って、熊野神社を戸沢家の代々の祈願神社としたといわれています。


熊野神社三つの宝物

 昔、湯野沢の村人がお伊勢参りをした際、宿で他村の人と村の名所自漫をした時のことです。湯野沢の人は「私の村には3つの宝がある。1つは腐らずの橋で、五十鈴川の橋より立派な宝の橋、2つは弁慶の踏み跡だ。そして3つめは三川の一橋十鈴川の橋より立派な宝の橋だ。」と自慢しました。
 お伊勢参りから帰ると、他村の人は湯野沢の人について来て、湯野沢の宝の橋を見学に行きました。熊野神社のお池の前で湯野沢の村人は「五十鈴川の橋は20年に1回かけかえて新しくするが、この橋は石橋で永久に腐らない宝の橋だ。」といいましたが、橋があまりに小さい橋だったので、見学に来た他村の人は「どれやあ~?」と言って大きく口を開きました。その大声で地面に穴があきました。その跡を弁慶の踏み跡といっています。また,岩木村と湯野沢の境を流れる法師川にかげられたガンジャ橋のところに連れて行き「この橋は昔、弁慶が大石をかついできて、法師川が三筋に流れている所に一つに渡した橋だ。それで三川の一橋というのだ。」といって案内しました。
 日照りの時はこの橋の上に立って川の泥水をくみあげたり、棒でかきまわしたり、石を投げたりすると雨が降るといわれています。


熊野神社一の鳥居

       一の鳥居
                   一の鳥居
 熊野神社は防火の霊験あらたかな神様とされ、江戸時代に湯野沢で3回火事がおきた時も、その度に熊野神社の霊験により大火には至らなかったといわれています。
 寛政2(1790)年秋、村に火事がおきました。火の手は収穫した米を納めたばかりの郷倉に燃え移りました。村人たちは必死に消火しようとしましが、折からの強風のため火は燃え広がるばかりでした。村人たちはただ呆然とし、村内は大火になろうとしていました。
       ちょうどその時,周囲の杉林の間から夜霧がわき出てきました・・・
 その時、急に周囲の杉林から夜霧がわき出し、夜空からは雨が降りだしました。霧と雨は火を包み、火の勢いは急におとろえを見せました。これを見た村人は元気づいて、火を消火することができました。結局倉は表面を焦がしただけの小火で終り、蔵に納めた米は一粒も焼けませんでした。
 霧や雨雲は熊野山の空から流れて来たので、村人たちは「これはきっとおくまんさまが守ってくれたのに違いない。」といって急いで熊野神社行ってみると、案の定社殿から煙がでているのが見えました。さらに一目散に走って社殿に飛びこんでみると、社殿の北側の垂木が1本新しくこげていました。村人たちは「やはりおくまんさまが村民の身がわりとなって大火を防いでくれたのだ。」と思ったそうです。
 この事を感謝して、村役人の秋場茂エ門が米15俵と小豆3斗を奉納し建立したのが通称一の鳥居(現在の二の鳥居)です。建立時、村人は奉納米で餅をついてお礼参りをしたそうです。熊野山一の鳥居はもともと宝地区石井商店前の、天神地区に上る道の入口に建っていました。天神地区から葬式がでた時は行列や枢は必ず鳥居をよけて通っていました。鳥居は昭和30年頃、自動車の往来が激しくなり道が狭くなるということで、院内溜池堤防横に移転しました。その後平成8年、院内ため池の改修工事に伴い現在地に再移転しました。
 鳥居の銘 寛政9丁己年9月吉日 山形肴町石工鏡門兵衛

谷地布宮

 新庄藩二代藩主香雲寺さまが家督を継がれた時、武運長久を祈願され家臣に熊野神社代拝を命じて神社に戸帳を奉納されました。当時、神社境内には谷地布宮という祠があって村の人たちは魔所として恐れていました。そこはある神霊を納めた所で、近づくと祟りがあると恐れられていました。近づいた人は必ず死んだり、病気になったり、発狂したりしたそうです。香雲寺さまはこの話を聞いて「この祠を土中に埋めよ。」と命令し、祠は地中に埋められました。この祠は熊野三郎を祀ったものだとも伝えられています。


熊野神社の御神馬

 昔、熊野神社境内南側に駒太屋敷という屋敷がありました。そこで飼われていた熊野神社の神馬2頭がある時湯野沢地区に降りて来て暴れ回り、土蔵や家の土壁をみると壊してまわりました。また農作物の植えてある田畑にでては、めちゃめちゃに荒しまわったそうです。それからというものは湯野沢では土壁をぬったり、土蔵を造ったりすることはしなくなったそうです。また、馬を飼うことも行われなくなり、牛だけを飼うようになったそうです。

熊野神社の御神馬と天神様の土俵

 熊野神社の神馬は熊野三郎の馬で、2頭とも力の強い名馬でした。熊野神社拝殿内の絵馬は、狩野芳元という絵師が駒沢屋敷で飼われていた二頭の神馬が畑に出て、麦を食う姿を描いて熊野神社に奉納したものです。あまりの名画なので実物の馬が死んでもこの絵馬の中の馬が時々飛び出ては村の田畑の農作物を荒し食いまわったため、村人たちは相談して、絵馬から馬が飛び出さないように足の部分を切りとってしまいました。
 そのころ、谷地八幡宮のどんが祭りで各村若者の奉納相撲があり、湯野沢村は高砂衆という団体名で参加していました。相撲に勝つと豊作になるといわれていましたので、この神馬の力足にあやかろうと、絵馬から切りとった足の部分を天満神社境内の土俵下に埋めたそうです。そして9月1日の風日祭にどんが祭りの相撲大会の練習をかねて奉納相撲をするようになったそうです。この荒馬神馬にあやかったため高砂衆はどんが祭りではたびたび優勝し、特に寛政年間(1790年代)、当時湯野沢で一番カ持ちといわれた人は荒馬にあやかって荒瀬川と名のり、江戸相撲に出て優勝しました。しかしあまり強かったため恨みを買い、江戸から帰る途中待ぶせされ殺されてしまったそうです。
       熊野神社神馬の絵馬
 絵馬には奉納 慶長4年5月 右京介と書かれています。 慶長4年は関が原の戦いの前年です。関ヶ原の戦いの時、上杉の軍勢3000が最上領の寒河江・谷地に攻めてきました。当時湯野沢は白鳥氏の滅亡後最上領となっていましたので、この時戦いを前に武運長久を祈願奉納したのが、この絵馬であったのではないでしょうか。
 右京介は溝延の狩野派の大江家の絵師、江目右京進繁貞のことであると伝えています。


飛びつき杉

 昔、熊野神社の境内に元回り10尺もある杉の老木がありました。熊野三郎が幼いころ、弘法寺の僧侶からお経や漢文を習いながら、この老杉で山伏たちと剣術の稽古をしたのだそうです。それで、飛びつき杉といっています。かつてはその秘剣の免許までだしていたそうで、免許の巻物を白鳥村の人がもっていたといわれています。