伝統ある湯野沢の大祭
古来湯野沢では20年に一度村の鎮守である熊野神社・天満神社の社殿修復や建て替えを行い、竣工を祝う大祭を行ってきました。昔は二つの神社のお祭りの時期が10年ずれていましたので,湯野沢では10年毎に熊野神社と天満神社の大祭が交互に行われていました。言い伝えでは令和5年で41回を数える伝統あるお祭りです。
大祭祓式(初日朝8時頃)
初日朝,宮司宅熊野堂前に参加者各連中の代表らが参集し,祭り行列の安全を祈る神事です。
禊・四股踏み・烏跳び・鹿子踊りの大鹿の舞を行って祭全体の安全と成功を祈ります。
発輿祭(初日朝8時30分頃)
神様が神輿にお乗りになり,出発の祝詞奏上,楯地区婦人御神歌を奉納,熊野太鼓を合図に神輿渡御行列が出発します。
神輿渡御行列
渡御行列は,獅子頭を先頭に奴振り・氏子総代・大麻塩水・神社の旗・猿田彦・熊野太鼓・大榊・太刀・弓・諸締命・熊野三郎・五色の旗・神輿旗・錦旗・稚児・神輿・神職・鉾・神馬・鹿子踊からなる総勢約300人の行列です。
御幸順路
大祭初日は3カ所の御休憩所を経て稲荷神社にお泊まりになります。2日目は稲荷神社をご出発の後,2カ所のご休憩所を経て神社にお帰りになります。
それぞれのご休憩所の家では部屋に菰を敷き,神饌を準備して神輿を待ちます。神輿が到着すると神輿に神饌を供え地区代表とともに参拝、地区婦人たちが御神歌を献詠します。この間鹿子踊が披露され,各連中は休憩をとります。最後のご休憩所では,今回のお出ましへのお礼と、またのお出ましを祈り,また村内安全・五穀豊饒・産業隆盛・商売繁盛・延命長寿などを祈って「つと」と呼ぶ沢山のお供え物を神様にお供えし,人々は,神歌(かみうた)謡い神様をお見送りします。
還御祭(二日目午後2時頃)
拝殿前で諸締命が地面を九字に四角を足踏みします。つづいて,忌鎌・忌鋸・忌鍬・忌鋤を取り地面を左右祓い,エイッエイッと声をあげながら地面を掘って,熊野大神の神霊甕(みたま)を土中に置いて下がります。
次に,熊野三郎が進み出て杉の神籬を取って,神霊甕(みたま)の上に立て土をかけて下がります。続いて神輿が社殿に入御し,神様は本殿に鎮座なされます。
奉幣式(二日目午後3時頃)
本殿に戻られた神様に海・河・山・野の産物と郷内の新しく採れた五穀・産物を神様に供え,国と郷内の安全と繁栄を祈ります。式は雅楽を奏する中,明治時代の作法で厳粛に行われます。
(1),獅子頭連
獅子頭は百足獅子といわれ,百足のようにジグザグに進行します。昔はひょっとこ・おかめなどが加わり祭りを引き立てていました。獅子頭は明治15年に連中頭の秋場さんが彫り,東根の六田の塗り師が塗りをかけたものです。
(2)熊野神社奴振り連中
衣装の山桜紋は熊野神社の御神紋です。今より150年ほど前の文久年間に,海老名庄左衛門家の人でアカオヂとあだ名されていた人が,沢畑の阿部家に奉公中,谷地奴振り連中に加入して振り方を習い,のち本村に帰って振り方を教えたといわれ,その後石川善作・宮林三蔵が連中頭となって連を組織したといわれています。
振り出しの行列順序
1,太鼓1人 2,挟み箱2人 3,大傘1人 4,小傘1人 5,大鳥毛1人 6,シャグマ4人 7,鉾2人 8,歌い方及び雛方助成34人
奴道具は,もとは東根市神町若木に居住していた士族日野家の所有でした。江戸時代日野家は秋田藩主佐竹候の参勤交代時の休息所で,日野家では参勤交代の時には六田と神町,神町と天童間を奴を振って先導していたといわれています。明治維新のとき,日野家の奴道具は海老名家に移され,明治14年明治天皇ご巡幸の際,巡幸行列を奴振りで先導しようとしましたがかないませんでした。翌明治15年の熊野神社大祭から神輿行列に奴振りが初めて加わり,その後は熊野神社の大祭典の時に,鹿子踊りと共に神輿渡御の行列に参加することになりました。明治15年〜昭和38年の大祭までは天皇様を敬い、また保護のため挟み箱を白衣で覆って振っていました。
古い衣装の法被・帯・前掛けは熊谷家所有です。腰に付ける瓢箪は別当寺証誠院の瓢箪池に因んだものです。
(3)神輿行列
祭典行列の中心で,鎌倉時代,時の領主熊野三郎が紀州熊野大社を勧請した時の行列にならったもので,神官・氏子総代・宮大工・天神・楯・宝の神子たちが精進潔斎して白装束で奉仕します。
主な参加者
鳥天狗
猿楽面を付け、熊野太鼓を打ち鳴らし,神の道案内をします。
諸締命
菅笠・菅蓑を身につけ,ぼっこ草履を履き,紀州熊野神の御霊を懐手にします。
熊野三郎の命
鎌倉時代熊野大社勧請の時に神木として植えた杉の木の神籬を持ちます。
神輿
昔は年男が全員精進潔斎し水ごりをとって担ぐのを習わしとしていました。
山車と稚児行列
昭和3年の天満神社大祭までは矢木沢・山際地区から山車が出ていましたが,戦時中中止されたまま復活していません。稚児行列に参加する稚児は,宮司・氏子総代の家の3才・5才・7才児の中から男女1名ずつと,村内の7・5・3才児の男女の参加とされています。
(4)天神鹿子踊
由来
天神鹿の子踊りは,本村北部の地区の若者で連が構成されるのが習わしでした。石井清四郎家に大槙村より養子に入った石井吉蔵という人が,天明年間(1781−1789)に,他村の鹿の子踊りを参考にして,本村独特の舞を考案して踊ったのが,天神湯野沢鹿子踊連中の始まりといわれています。以後,石井清四郎家が代々連中頭を務めてきました。明治31年から天満神社鹿子踊として祭典行列に参加するようになりました。現在の獅子頭は大正4年に制作したものです。
特徴と種類
七頭獅子で構成され、寒河江系の鹿子踊りに属します。この内の大獅子は反閇(へんばい)といつて,神輿の出行の時に梵天(ぼんでん)を腰に挿し,狂い獅子といって,九字に合わせ四隅を足踏み邪気を祓う呪法の舞をします。これは本村の古来の舞を伝えるものです。ササラ4人・鉦打ち(かねうち)4人・鹿子7人うち大鹿1人から構成されます。踊りの種類は,道踊り・橋路舞(はしじまい)・門路舞(もんじまい)・入りは・さんほんまり・くらい鹿子があります。昔は,天満神社の祭りの奉納のほか,盆中に寺・庄屋の庭先・郷倉の前で踊られていました。旧暦7月7日の山寺盤司祭では,各村の鹿子踊は舞の優劣によって参詣の順番が定められていましたが,天神湯野沢鹿子踊は妙見寺についで2位であったと伝えられています。
由緒ある道具類
奴と鹿子踊、百足獅子の頭と道具は100年以上前に作られ、使い続けられてきた伝統のあるものです。
みそぎ
大祭初日朝の大祭祓式直後、神輿行列代表が禊を行います。大祭の成功と安全を祈願し、豪快に水をかぶります。
大鳥毛の門くぐり
初日朝に熊谷家を出る時をはじめ,ご休憩所,神社の鳥居をくぐる際,奴が大鳥毛をぐぐっと前に倒して門をくぐります。迫力満点です。
奴の唄
これはとにかく聞いてみて、としか言えません。最初はふつうなのですが・・・。
鹿子と鐘ぶちのコンビネーション
湯野沢の鹿子踊は鹿子と鐘ぶちが同じ動作で踊ります。踊のクライマックスでは鹿子と鐘ぶちが同時にジャンプして一回転するときもあります。カメラマンの方お見逃しなく。
鹿子本踊り
大祭二日目に大祭本部前で舞われる鹿子踊は本踊りといわれ省略のない正式な舞で、一時間近くにわたり舞われる本格的なものです。
巫女舞(豊栄舞)
大祭二日目本部前と熊野神社奉幣式において、冨本小学校5,6年生が巫女舞を披露・奉納します。
奉幣式
大祭最後の行事である奉幣式は神事で非公開ですが、明治初めの神事をほぼ古式のまま踏襲するものです。信仰心厚い方、神社祭式に興味のある方で参列を希望される方は神社までお申し出ください。
神輿渡御行列コースと奴・鹿子踊披露・奉納場所マップを紹介します。時間が前後したり変更を生じたりすることがありますので、時間に余裕をもっておいでください。
大祭期間中地区内は交通規制が実施されます。案内などをご参考の上ご協力をよろしくお願い申し上げます。
神輿渡御行列コース